瘢痕部完治と妊活再開。
2019/3/7 子宮鏡検査の日。
人生で初めてだったので、痛いのかなぁ、なんてちょっと不安になってましたが全然痛くありませんでした!
水?をいれられ洗浄しながら、カメラで覗いていく。
「これが瘢痕部ですね、おそらく。全然綺麗でわからないくらいです。」
と確かに傷があるのかもわからないし、何か組織がくっついているようにも到底見えず夫婦で安堵。
旦那氏も一緒にいろいろと質問をして、納得。
これで瘢痕部妊娠の治療は終わり。妊娠OKも出た。ちょうど1年かかりました…。
次の妊娠については一回考えようかね、と帰り道に話しをしました。
夫婦二人だったので、串揚げのお店に行き御祝い?
なんか幸せだったな、と思い返してみる。
両家にも報告。
正直私の心は決まっていた。どうしても産みたい、と。
旦那も実両親も義両親も、あまり前向きじゃなかった。
皆いうことは同じで。
①もし私に何かあったら。
②悲しい思いをするかもしれないのに、そっちに向かうのか、と。
ありがたい、うん。ありがたい。
満場一致でそんな風に思ってくれていた。
結局、まあゆっくりしようか、と5月になった。
自分自身もそこまで焦ったり、という感情もなかった。
生理の日数が5日程度に戻ったこともあり、旦那氏と話し合うことにした。
正社員で働いていることもあり、私にとって家族計画は重要だった。
また、6月半ばに自分の部署で欠員が出ることがわかった。
しかも後継雇用の予定はなく、-1減の状態で仕事に臨まなくてはいけなくなった。
私32歳、娘5歳、娘の体調不良など急な休みは減っていたし、
本格的な復帰やキャリアアップを目指すなら、そのつもりでやりたかった。
私:妊娠、諦めるならもうすっぱり諦めたい、と打ち明けた。
旦那:欲しいけど。やはり前向きではない。
同じ思いはさせたくないし、抗がん剤治療も見たくない。
私:私は同じことを繰り返したとしても。抗がん剤治療も流産も受け入れる。
もう一回だけなら、同じ思いをしても頑張れると思う。
つらい思いをしても乗り越えられると思う。だから前向きに考えて。
と伝え、その日はすぐは答えは出なかった。
けど、毎日のように保育園のお迎えの時に言われる娘の情報、、
私たち夫婦に変化をもたらしました。
「○○ちゃん、3歳児に読み聞かせしてて上手なんですよ~」
「○○ちゃん、毎日▲▲ちゃんの面倒見てあげてるんですよ~」
と年長になったばかりで「非常に面倒見の良いお姉さん」情報がたくさん報告されたのです。
確かに、隠れて覗いていても、下のクラスの子に教えたり優しくしている姿を何度も目撃。
娘は前回の妊娠・流産・掻把・瘢痕部妊娠のことは知らない。
ただちょっと具合が悪いだけ、としか知らせていなかった。
けど、2人目については望んでいたはずなのに、めっきり言わなくなっていた。
むしろたまに「ママが大変なら、赤ちゃんは来なくても平気なの」と言うほどだった。
それでもやっぱり、言わないだけで欲しかったよね、ってストンと納得してしまった。
そんなこんなで、夫婦で決めた。
3人とも望んではいる。あと一回だけ、これで最後にしよう。
もし次同じことになったら3人家族で生きていこう。
と決め、妊活を再開することにしました。
2019.5月末 とりあえずタイミングをとってみる、生理来る。
2019.6月、7月 出産予定が娘の卒園・入学とかぶりそうなので見送る。
2019.8月 とりあえずタイミングをとってみる。生理来ない。
2019.9.6 娘を出産・昨年流産した産婦人科へ受診。胎嚢4mmを確認。着床場所も瘢痕部から離れていることを確認。
2019.9.14 胎嚢17mmを確認。再度、瘢痕部から離れていることを確認。
2019.10.3 胎芽と心拍を確認。もう人型になっていて、ぴょこぴょこ動く心拍を見ることができました。おそらく9週目。
2019.10.5 母子手帳を貰いに行く。
…と今日に至っております。
現在10週目後半、出血もなく穏やかに過ごしています。
次は10月29日に受診予定です。
実はブログを始めた9月12日は、胎嚢が確認できるかできないかの頃でした。
次回妊娠にチャレンジした一般の方の記録はなかったので。残そうと、思い立ったのです。
この後、どうなるかはわかりません。
私は何があっても平気!くらいにタンカ切ったのに、不安で不安で仕方ありません。
飛行機やエレベーターも嫌いで、いつも自分死んだらどうしよう、とすら思ってるくらいの心配症だったことを忘れていました。爆。
本当にここから先は、どうなっていくのやら。不安でいっぱいです。
以前のことは割愛気味になってしまいましたが、次回からは妊娠の経過報告をさせて頂こうと思います。
たまーに訪れてくださる方がいらっしゃるようで嬉しいです!
読んでくださる方、ありがとうございます。
穏やかに過ごしていきたいと思います。
妊娠、続けられるよう、来年赤ちゃんに会えることを願って。
つづく。
小康状態…完治まで。
だいぶ時間が空いてしまった…。
前回は、えーっとどこまで書いたっけ状態(^-^;)
昨年のGW頃まで、ですね。
紹介状を書いてもらい、都内の某大学病院へかかることになりました。
GWのバタつき等いろいろあり、5/9総合病院では最後の受診。
特段大きな変化もなく、紹介状を受け取って予約を取ってもらった。
次回は5/23、大学病院を初受診することになりました。
2018/5/23
仕事を一日休んで、初めての大学病院。
でっかーい。きれー。まよーう。時間かかりすぎー。が感想でした笑
のんきなことを言ってる場合でもなく、今後の治療がどうなるのか、
肝心の診察。エコーで診てもらう。
血流が多くて、でも「これかなと思う程度のちいさな豆粒大」なので、
しばらく通って血液検査と大きさが自然に小さくなっていくか、ゆっくり診ていきましょう。
万が一家で多量の出血がみられたら、ここの救急にかかるように。
とのことでした。入院も抗がん剤も無し。。安堵。
しかしながら、いつまで続くのかな。と先の見えない不安がありました。
ここから7月まで、1週間・2週間と診察のタイミングが徐々に開いてき、
ちょろちょろと出血があったりなかったり。
3月からずーっとナプキン・ライナーを手放せない日々が続きました。
毎回病院では血液検査。(苦手だったのにおかげで平気になった笑)
Hcg数値もちょっとずつだけど下がってるね、悪さもしてないね、大きさもちょっとずつ小さくなってるかな~。
といった相変わらずな日々。
通院の間隔が3週間にあいた頃、7月15日自宅にて。
生理1日目ほどの大量出血がありました。痛みは無し。
「そういえば最近出血なかったのにな、、ついに裂けてしまったのか?でも痛くないしな…」
と日曜日でしたが、主人に車で送ってもらい、大学病院の救急にかかる。
エコーでは、破裂ではないよ、けどこれだけ出血あったら帰せません。と言われる。
オーノー。まさかの即入院か。笑
料理のできない旦那、と娘が不憫で不安がよぎるよぎる笑。
結局のところ、7/15-17までの3日間入院で済んだのですが、体調もすこぶるよく、何度見ても破裂ではないそう。
しばらく経ってから、あれが生理の再開だったんだ!という認識に落ち着きました。
生理で3日も入院してしまったぜ…。
そして退院からおよそ1週間後の7/25、受診。
出血が止まっていた以外は大きな変化はなく、次回はまた1ヶ月後。
生理だった可能性が高いので、基礎体温をつけ始めるように言われる。
その後の経過は以下の通りです(すみません、割愛気味)
8/15-17生理様の出血。
9/20-22生理様の出血。
10/20-23生理様の出血。
11/21-24生理様の出血。
12/26-29生理様の出血。
1/24-27生理様の出血。
2/25-28生理様の出血。
毎回徐々に小さくなってhcgも下がってる、と言われる。
2019年.1月末 受診
もう何も見えない状態、hcgも下がった。
半年以上、日数は短いけど生理もきているし、
そろそろ通院無しで普通の生活を送っていいですよ
とのこと。
早速、2人目を望んでいることを伝えると。
リスクは当然あります。これを経験した人よりは同じ瘢痕部妊娠の可能性は高いでしょう。
同じことになれば、同じ経過をたどるし、抗がん剤を使って諦めることもあり得ます。
でも掻把手術からもちょうど1年、本当に瘢痕部が綺麗になっていれば、
帝王切開を1回経験した、その時点に戻った、と考えてよいと思います。
リスクを考えるのか、再度チャレンジしてみるか、旦那さんと話し合ってみてください。
瘢痕部の確認を望まれる場合は子宮鏡検査もできますが、どうしますか?
とのこと。迷わず子宮鏡検査をお願いしました。
これまでほぼ旦那氏は付き添い無しでしたが、夫婦で決断する為にも。
次回は一緒に来てもらうおう、と思いました。
続く。
掻把手術・退院~瘢痕部妊娠発覚まで
娘をハグして病室に入り、すぐ手術の準備。台の上に寝かされてからはもう記憶がありません。
手術室に入ったのが17時頃、目が覚めたのは21時頃だったかな。。(記憶曖昧…)
麻酔から醒めたら旦那は荷物を取りに行っていていない、とのこと。笑
「ああ、2週間足らずで終わってしまったのか・・・」と一人おなかをさすりました。
荷物を持ってきてもらって旦那に「娘を頼んだ!」と引き継ぎをし、
インフルエンザなので、旦那も仕事を休んでもらうことに。
私の退院は翌日もしくは2泊とのこと。
早く帰りたい気持ちもありながら、喪失感も大きく、ゆっくり寝ていたい気持ちもあるのでした…。
仕事に穴をあけてしまうので、しばらく休む旨上司に連絡を入れ就寝。
次の日、診察で中は綺麗になった、と説明を受ける。
貧血がひどいので今日は退院許可だせない、とのこと。
うん、あれだけ出血すればね…と納得。
娘とは会えないのでTV電話で話をしました。
すごく心配していた通り「パパがひき肉で焼きそば作ってくれて…うんおいしかった…よ!」等w
面白おかしく笑わせてくれました。(インフルエンザなのに焼きそば…泣)
診察・巡回の度に「まだ貧血」「まだ貧血」と言われ、退院したのは3日目。
鉄剤を30日分出されて次回診察の予約をして帰りました。
2018/3/3 受診。
経過も悪くないので、次回生理が来たら子作り再開してもいいですよ、とのこと。
2018/3/15 頃 出血
生理再開、かと思い喜ぶ。(通常生理程度の出血量)
通常5日で終わるのですが、3日程度で終了。
その1週間後に再度出血、その出血は断続的に少量ずつ続き、
1ヵ月終わらない生理におかしいな、とやっと本腰を上げたのが4月下旬。
*ずっと出血していたので、子作りは再開せず…。
2018/4/21
受診。子宮内にはなにもない。とのこと。
なのにhcgの数値が高く妊娠継続状態。(明確に数値は覚えてない)
なんだろうなんだろう、絨毛癌の可能性も、、と言われMRIを取ることに。
え。癌?なにそれ。状態。
2018/4/25
MRI検査
hcg数値も高いまま
次回受診時の予約と、来るときは入院の準備をしてくるよう言われる。
え、癌なの?本気なの?状態。
2018/5/2
受診。前回、癌というワードが出たので、入院の準備をし、旦那にもついてきてもらう。
「MRIでも癌のようなものは見当たらず、瘢痕部妊娠であった可能性が高い」と診断を受ける。
瘢痕部に着床したため、成長してもあきらめざるを得ない妊娠だった、
瘢痕部に組織の一部が残ってしまっていてhcgが高いまま、と説明。
さらに瘢痕部より裂けて破裂してしまう可能性あり、緊急手術対応可能な病院へ紹介状を書く、瘢痕部の組織を潰すには抗がん剤投薬(通院)か、小さければ経過観察でなくなるのを見るかのどちらか、と言われる。
なんだか亡くなってしまった我が子がまだおなかにいるんだ、と思えてしまって。
癌でなくて一安心、と、ハンコンブニンシン??という疑念と、
いろんな感情で。なんだかとっても複雑な気持ちになった。
ゴールデンウィークの中日だったので紹介状は後日、
更に受け入れに時間がかかるとのことでもう一度この病院で受診することに。
出血がひどくなったら夜間でもなんでも連絡して受診してください、とのこと。
帰宅することができました。
でもあまり詳しい説明はしてくれなかった。
瘢痕部妊娠がなんなのか。
帰宅後、検索魔になって調べまくった。
瘢痕部妊娠は異所性妊娠の一つで、帝王切開経験者ならだれでもなりうること
その確率が2000人に一人であること。
瘢痕部妊娠が予めわかっていれば掻把手術はしないらしい、ということ。
瘢痕部妊娠の治療法、経過、その後の妊娠。
専門家でないので詳細は省略しますが、
瘢痕部妊娠後の妊娠については、、、
あまり踏み出している方がいらっしゃらないように見受けられました。
調べるうちに生きていてよかった。。
抗がん剤で我が子が消えるのを待つ、なんて、そんなの無理、、って考えたら
いまの状態はよかったのかもしれない?
とかぐるぐるとりとめなく。
でも、この先どんな治療をするんだろう、
第二子熱望していたのに、再開なんてできるのかな、、
先が見えなくて怖くなったのを覚えています。
続く
胎嚢確認~流産まで
記憶にあることから。
2017年12月24日 仲良し
そこまで本格的に妊活!というわけではなかったので、
基礎体温もつけていなければ、生理予定日すらはっきりわからない、
そんないい加減な日々を過ごしていました。
1周期でここしかタイミングがなくて、クリスマスイブだったので覚えています。
確か最後の生理は2017年12月6日頃だったような。
2018年1月17日頃、ああ、そういえば来ていないかも、いやまさかね…。
と検査薬を使用しました。結果はくっきり陽性。
夫婦で「え、あ、まじか!!」となりました…。
驚きはすぐに喜びに変わり、夫婦で男の子かな、女の子かな、名前は…等と話合ったのを覚えています。
2018年1月20日(土)初受診 胎嚢確認(5週目かな~とのこと)
平日フルタイムで働いているので、まずは胎嚢確認のころかな、と土曜日の受診を選択。
娘を出産した病院で受診しました。
大きな大きな総合病院なのですが、娘を取り上げてくれたオジサン先生ではなく、
初めての女医さんと大学生くらいの男の先生が同席する形で診察でした。
エコーで胎嚢が見えて、写真を貰って帰ってきました。
次の診察は10日後、1月30日になり、次は胎芽に運良ければ心拍か!!とウキウキして過ごしていました。
冬だったので毛糸のパンツを買って帰り、足もとも冷やさないように過ごすことに。
つわり等もなく、なんにも考えずにポカンと過ごしていたと思います。
初めて出血を確認したのは1月25日の夜。
胎嚢確認から5日後、おそらく6週目に入ったころだと思います。
それはそれは真っ赤な鮮血でした。
ティッシュにつくほど、どころではなく、生理開始目ごろの出血。
あ、もしかして流産なのか、これが流産なのか??
と心配で心配でたまらなくなり、検索魔の末、翌朝26日受診。
妊娠は継続しおり、小さな胎芽も確認。
ただ、ちょっと厳しいかもしれないね、、でも判断するのはちょっと早いかな、
もうちょっと様子みましょう、これ以上出血が続いたらまたすぐ来てください。
と、言われ一旦帰宅しました。
もうそこからは更なる検索魔。
ここで初めて、妊活ブログをたくさん読み。
妊娠出産が奇跡の連続であることを改めて知ることとなりました。
わかってはいたけど、生まれてくれた娘をより愛おしく思い、、落ち込んでる場合じゃないな、と自分自身を振るい立たせました。
1月27日28日(土日)
出血多く自宅で過ごす。
なんか量多いかも?と思いはじめましたが、
増えたり減ったりでもあったので耐え凌ぐ。
念のため超多い日用のパンツタイプのナプキン?(もはやおむつ)を調達。
1月29日(月)
仕事行かなきゃ、でも出血多いな、と思いパンツタイプの物を使用し、
ふらふらしながら職場へ向かう。鏡をみて、すごく血色が悪いことに気付く。
レバー状の塊(2cm大)が混じり始める。1時間置きくらいに塊が出続ける。
耐えきれず早退をして病院へ。
病院でレバー状のものを拾ってもらうも内膜ではないかとのこと。
「まだなんとも、、、頑張れる?」と聞かれる。
ハイ、と答え、またもや帰宅。帰宅後夜、娘が発熱していることに気付く。
1月30日(火)
娘を小児科へ連れていき、インフルエンザと診断され仕事もしばらく休むことに。
娘と二人、家に引きこもる。相変わらずオムツタイプを着用するほどの出血と塊。
娘の煮込みうどんを作って二人で寝転がる。
万が一の時の為にスマホの操作をそれとなく娘に教える。
1月31日(水)
朝…青白い顔で起きると、さすがに見てられないよ、病院行くか?と旦那。
でも娘ちゃんインフルエンザだし、、何かあったら連絡する、とし旦那を見送る。
昼…貧血でふらつきがひどくなり、旦那を呼び戻す。
旦那帰宅後、、娘も一緒に車に乗せて病院へ。車に二人を残し受診。
青ざめた顔を見ていつもの看護士さんが「よく頑張れたね、つらかったね。」と言ってくれて涙。
女医先生「もう頑張れないよね…つらいよね??うーん、言いにくいんだけど」
私「つらいはつらいですけど、、、どうなんですか?まだ可能性はあるんですか?」
女医先生「可能性はゼロではないかもしれないんだけど、厳しい。出血量が多くて。これ以上待つとお母さんが危なくなっちゃうのね。すぐ手術の準備をしたくて、ご家族は呼べますか?」と告げられる。
車にいる旦那と実家に連絡をする。
実父が駆けつけてくれ、娘を父に託し旦那を診察室へ呼ぶ。
旦那と目を合わせた瞬間、涙が止まらなくなった。
ごめん、ごめん、ってずっと言ってた。
可能性ないなら、早く処置してくれ、と思ってしまった自分を後悔し始めていた。
(事実本当にしんどかったのは言うまでもないですが、私自身が諦めてしまったように感じて、ひどく自分を責めました)
入院の為、診察室から病室に移ることに
歩いてはダメ、とストレッチャーに寝かされる。
看護士さんが「急だもんね、娘さん会いたいよね」と言ってくれ、もう夕方だし、
(患者さんもいないので)マスクして総合受付くらいまでなら連れてきてあげていいですよ、と言ってもらう。旦那が車へ迎えに。
私がストレッチャーで受付を経由して娘と面会。
「ママ!ママ!なんで!どうなっちゃうの?帰ってくるの?」と大泣き。
「大丈夫。ちょっとお泊りすることになっちゃったけど、パパをよろしくね。小さいお嫁さん、してあげてね。絶対帰るから大丈夫だよ」とハグして一時お別れしました。
続きます。
思い立ったが吉日
はじめまして。30代、第二子出産希望のワーママです。
思い立ったので書くことにしました。
私が昨年経験した、帝王切開瘢痕部妊娠とその後について。
ブログについては仕組みと使い方があまりわかってなくて不備あったら申し訳ありません。
ただ、日々のこと、もしかしたら誰かの役に立てるかもしれないこと、
だらだらと書いていきたいと思います!!
2013年11月 37週で高血圧の為、第一子女児を緊急帝王切開で出産。
その後、帝王切開が苦い思い出となってしまった私は、
第二子の妊娠に後ろ向きな日々を過ごしておりました。
麻酔がどうしても合わなかったのか、頸部の痛みが1ヶ月続き、立つのもつらかった娘の新生児期。
意地っ張りなので、歩かなきゃ育児は無理、と言われた私は
手術の翌日、自分で歩いて新生児室に行き、母子同室を認めてもらいました。
それからはもうただの意地ですね…笑
育児だけは、這いつくばってでもやろうと心に決め。
ただ、頸部の痛みは酷いもので、とてもとても育児以外の家事をこなせる状態ではありませんでした。
【2人目の妊活】
娘が3才を過ぎるころ、娘の通う保育園で娘しか一人っ子がいない状況になり、徐々に二人目を考え始めました。
仕事のことなど、いろいろと理由はありましたが、娘4才を過ぎた2017年11月、
傷が癒えた自然な流れ?で夫婦共々、妊娠を望み、妊活を開始しました。
実は一人目は仕事が楽しい時期で会ったこともあり、避妊が完全でなかったことによる思いがけない妊娠。。(勿論結婚はしていたので、嬉しくなかったわけではありません!)
妊娠出産が奇跡の連続であること、妊娠を強く望んだ2017年以降、初めて詳しく知ることとなりました。
フライング検査や化学流産、という言葉があるとか、高温期やら低温期があること、
第一子を出産してから極度の心配症になってしまったこともあり、
「妊活」を意識し始めてから不安しかなかったと記憶しています。
*現在も認識不足の部分あるかもしれません、
妊活ブログ!の予定ではないのでご容赦ください。
2018年1月中旬頃、妊活開始から初回周期で検査薬陽性反応。
私たち夫婦はとても喜びました。念のため娘には言いませんでしたが…
この時の妊娠が2000人に1人の確率、帝王切開瘢痕部妊娠でした。
既に当時の記憶はあまり正確ではありませんが、経験として記載していきたいと思います。
続く